12/082011

おじいちゃんの戦争

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今日は真珠湾攻撃の日。

おじいちゃんは、大正2年生まれと言うことは昨日書いたが、それは日本が泥沼の戦争に突き進む時代が始まる前だった。おばあちゃん経由で当時の様子を聞けば、そこそこ豊かな家であったようで、おじいちゃんはその跡継ぎということもあり、けっこうのんびり育った。ただ、いわゆる、おじいちゃんのお父さん、つまり僕の曾おじいちゃんには正妻である曾おばあちゃん以外に何人か女性がいて、かつ子どももいた。おじいちゃんは、正妻の長男と言うだけであって、実はお兄さんが複数人いた。

そういう苦労は想像つかないし、ひょっとすると当時の社会では当たり前の話だったかもしれない。おじいちゃんが24歳で、おばあちゃんが18歳の時に結婚。よくある話だが、親同士が決めた結婚で、結婚式の瞬間まで会わなかったようだ。とはいえ、想像するに、そんなに遠くない家同士なので知ってたんじゃないかな。

戦前の農家のスタイルはなかなか聞きにくいこともあってあまり知らないのだけど、その傍ら、散髪屋を始めたようだ。それが軌道に乗ってきたときに、兵隊に招集されることになる。僕の母が生まれた1年後、昭和15年のことだ。

おじいちゃんが、兵隊に招集された時、大黒柱がいなくなるわけでかなり困ったようだ。それはどこの家でも同じだったろうけど。数年前におじいちゃんのお母さん、つまり僕の曾おばあちゃんが亡くなっており、残されたおばあちゃんは、赤ん坊(僕の母)の世話をしながら、野良仕事と散髪屋の維持、それに何かと難しい親戚づきあいをしたわけだ。書いてるだけでも嫌になる苦労だなぁ。

おじいちゃんは陸軍の揚陸隊のような部隊に配属されたようで、最初は上海方面に。聞けば勇猛果敢に戦闘に参加したようではないのだけど、負傷をして病気を併発し、内地(日本)に送り返されることになった。移送先は横浜あたりの陸軍基地内の病院。

病院に搬送されたはいいが、おじいちゃんの容態は深刻で、かなり重傷だった。今晩がヤマかもしれないという時に、お見舞いに女性が現れた。ただ、おじいちゃんは意識がなかったので、看護婦さんが名前だけを記帳してもらってお引取りいただいたとのこと。

おじいちゃんが意識を取り戻した翌朝、看護婦さんから手渡された紙切れには、亡くなったはずの曾おばあちゃん、つまり母親の名前が、見慣れた筆跡で書かれていたそうだ。

おじいちゃんは、そういえば朦朧とした意識の中で、母親が励ます声を聞いたような気がしたそうだ。

おじいちゃん特有の作った話かもしれないが、僕は小学生の頃、おじいちゃんからその話を聞くたびになんだか胸がいっぱいになった。

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