02/232011

僕が日立とSGIを辞めた理由

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またも就職活動中の学生さんに相談を受けました。特にそういう相談窓口を開設しているわけではないのですが(笑)。時間の許す限りお話聞きますので、悩まれている方はどうぞご連絡くださいね。

以前に別の学生さんに相談を受けたときに書いたことは下記のとおり。

就職活動の流れで、専門家を目指してみるのは?

今日話を聞いていて考えていたことは目の前にいる学生さんの諸々ではなく、ぼんやり昔の自分を思い出していました。

僕はバブル絶頂の1991年に就職活動をしていまして、まぁ、いくつも内定を取っていたんですが、最終的に、「日立が潰れるような時代は社会自体がまともじゃないから、まぁ、安心だろう」というほんま寄らば大樹。まさに「この樹なんの樹、日立の樹!」でした。

入社して最初に感じたのは、同期たちの優秀さでした。院卒、大卒、高専卒で同期2,700人と言う半端じゃない人数も凄かったんですが(笑)、そんな中に東大、京大ごろごろ。僕なんかはバブルで無理無理入ったのが肌で感じられます・・・。それで、こりゃ東京じゃライバル多すぎるな、まじで。と思ってその事業部同期200人で1名だけ枠のあった、名古屋配属を希望しました。でまぁ、そこそこ営業成績を上げていたのですが、たまに工場からやってくるエンジニアや東大出のSEの方と話していても、同じ会社の人間とは思えない優秀さ。地方(といっても名古屋ですが)に逃げたものの、将来的に楽しい仕事はできないまま、子会社に転籍して、面白くも無いマネジメントのルーチンワークな日々がやってくるんだなと容易に想像できました。それが耐えられませんでしたね。

エリートひしめく競合多数の中に飛び込んでしまっていたわけですよ。間違いなく。

2社目のサラリーマンとしてのシリコングラフィックスは、それと比べると製品自体がニッチで、やりがいを感じました。日立時代のスーパーコンピュータに関する知識なども活かせたので、毎日が面白く、成績も上がりました。

が、ここでも感じたのは、やはり優秀なやつは多いと言うことで、2、3年ならお客様のハートを掴んでおいて、営業成績上げられるけど、その先のマネジメントになると英語もできないし、シリコンバレーの本社に人脈も薄い僕に、面白い未来があるとは思えませんでした。(まぁ、SGI自体が米国じゃ実質なくなっちゃったわけですが)

具体的に言えば、40歳以上の僕が働いている姿が、日立やSGIの現場では想像できなかったんですね。40歳を超えて楽しそうに働いているのは、もっと優秀なほんの一握りのやつなわけですよ。

僕レベルが残ったら上司の顔色をうかがい、派閥争いを演じ、部下からは疎まれる、若手がやってる仕事自体がよく理解できないのに声を大きくしないといけない・・・そんな光景が想像できました。というか、目の前に何人もそんなおじさんがいました(笑)

とは言え、僕の過去を思えば、日立とSGIでたくさんのことを学ばせてもらったので、大いに感謝しています。なので、「中小企業で競合社員少ない中で、やりがいのある仕事をしていった方が、40代で楽しいかもよ!」とは安易に言えません。

ですが、僕の場合はそういう思いもあって二つの会社を辞めました。

そんなことを考えていました。

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