09/222010

死ぬまでには書きたいネタ

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僕は1992年の春という、バブルが一番大きく膨らんだ時に社会に出ました。卒業して入ったのは株式会社日立製作所。今の学生の方々ほど真剣ではなくって、単に「親が知ってる会社、テレビでCMが流れてるような会社ならどこでもいい」ぐらいの気持ちでした。入社前の書類で本気で「日立制作所」と書いていたのをおぼえています。自分が入る会社の漢字も勘違いしていたわけですね。

中島聡さんが、一昨日のブログで気になる記事を書いてられます。

「公共投資」が生み出した日本のITゼネコンビジネス

僕もその一角の「H」に入社したわけでした。社内では「N(NEC)が仕掛けてきたんだよねー」「F(富士通)と早く話つけれないのか?」というような言葉が飛び交っていました。僕が入った事業部は、「公共情報事業部」、つまりコンピュータメーカー(ITゼネコン)の中で公共投資で生きていた事業部でした。

配属された部にSEはいましたが、半分は系列子会社の方々、もう半分はそこからの孫請け会社の方々で、親会社たる僕たちの所属のまだ若いSEが偉そうに孫請け会社のベテランSEさんを大声で怒鳴ってる場面は日常的でした。

既に大型コンピュータ/ハードを売って、その利益でソフトやサービスを無償サービスという時代は表面上去ってましたが、営業とSEの主任技師の采配でどうにでも配分ができたりしまして、社内ではとにかく、「来月20人月分確保してよね、森田!」と頭数分の工数予算を捕ってくることが営業みたいでした。

早ければ20代で主任待遇の「技師」になって、主に工数管理だけするような大卒、院卒のエンジニア。工場のお偉いさんや事業部のお偉いさんが来たときの接待時だけ活躍するシステム部長。

当時はそんなものだとしか思っていませんでしたが・・・。

僕はまだ多少なりともIT業界に身を置いてまして、この先の面白いネタはいくつもあるのですが、まだそれを書く勇気がありません。ITゼネコン各社はこうなっていけばいいのではないか?という提言もいろいろありますが、裏の事情を説明してからでないとうまく表現できないのです。

いつかは書いて、小説にでもと思ってるのですが。


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